赤毛のアンの「ミッド・ライフ・クライシス」




ミッド・ライフ・クライシスという言葉がある。


まあ、中年になりかかった頃に、自分の老いを感じ始め、人生も何か取り返しがつかないような気がして急に若返りして若い頃に出来なかった派手な行動をとる人によく使われる言葉だ。

別名「今まで一生懸命働いてきたお父さんが、いきなり『自分の人生このままでいいのか?』と怖くなり、離婚して、金髪のネエちゃんと付き合い始め、赤いスポーツカーを乗り回す」症候群ともいう。アメリカの感覚だと男性によく使われる。

女性の場合は空の巣症候群を当てはめられることが多い。子育てが終わって、自分の周りを見てみると、何もない。私の人生って子供のためだけにあったの?私は自分のためになにもしてなかったわ!と焦る人のことを言うことが多い。




さて、今は昔、ヴィクトリア時代はもちろん現代と比べて、女性の社会的役割は限られていた。女性は結婚して家庭に入り、子供を育てるもの、というのが当然のように受け止められていた。もちろん職業婦人もいた。でもどうも職種も限られていたようだ。先生とか看護婦とか。

「アンの夢の家」に出てくる薄幸の美女レスリーも、夫が死んでいると分かった後は農場経営をやめて看護婦になると言っている(結局オーエンと結婚して主婦になるが)。
「アンの友達」の「争いの果て」に出てくるナンシーという看護婦の女性も、38歳で独身の自分を、昔の恋人ピーターと結婚して食事の世話をしたりするほうが楽しかったんじゃないかと従妹に話している。

唯一、「キャリアウーマン」として登場するのが、アンの幸福で登場したキャサリン・ブルックだ。彼女は20代後半まで教師を続け、それからビジネスマンの秘書になって世界各地を回るという快挙を果たしてくれた。




アン・シリーズは、一人の女性、アンの半生を描いた大河ドラマのような趣がある。今回スポットライトを当ててみたいのは、中年(現代の感覚だと中年ではないけど、この時代はそうだっただろう)になったアンだ。


「炉辺荘のアン」は、すっかり主婦と化したアンの家庭生活を描いている。物語の大半はアンの子供たちの話で、アンは脇役にすぎない。だがこの本の面白いところは、巻頭と巻末の部分のみ、アンが主人公として描かれているところだ。その場面をピックアップしてみよう。

巻頭に、アンはグリーンゲイブルスへ里帰りしている。リンド夫人の「あんたが行ってしまってから9年になる」という話からすると、アンはこの時点で34歳になっている。前巻で影の薄かったアヴォンリーのみんなの「その後」がさりげなく世間話としてほのめかされ、アンとダイアナのピクニックで彼女らの昔話が繰り広げられる。

読者も一緒に「あーそういうエピソードあったな」と、アンとダイアナと共に過去を共有させてくれる嬉しい演出だ。そんなスタートの後に、いきなりアンの子供たちの生活が描かれている。アンは時々登場するが、彼女が主体になってないので脇役になってしまっている。

巻末も、いきなり主人公がアンに戻ってしまう。今まで母親として子供たちの活躍の陰に隠れていたアンが、またいきなり表面に出てくるのだ。巻頭からは何年か経っていて、40歳くらいになったアン。

私は個人的にこの巻末のエピソードが全巻を通して一番好きだ。シリーズを通してアンにはどうも「生臭さ」が欠けていた。

ギルとの結婚前も、やきもちをやくことはあったが、それは彼女の意識の中では水面下だ。しかしここでのアンは、バリバリに自分の中の嫉妬心を意識し、受け止めている。ここでやっと生身のアンに出会った気持ちになるのだ。



しかも、ここでアンとクリスチンが繰り広げる、「お互いとの戦い」と「自分の中の葛藤」が見事だ。




41章(霧雨)冒頭では、結婚15年以来専業主婦としてがんばってきたアンが、もうなにもかも「イヤんなる」とこからはじまる。毎日の単調な生活。夫ギルも、アンを「一種の習慣」のように見ている気がする。まさに「倦怠期」を迎えたかのようなアン夫婦。アンは悩む。そんなところにかつてのライバル、クリスチンと会う約束が入る。自分だってギルの小さな癖にいらいらしてたくせに、いきなり被害妄想ともいえるような悩み方をするアン(もとから想像力はすごかったけど)。

鏡をみながら「私ってまだイケてるよね」と確認したりしながらも、クリスチンが美しかったことを考え、元気をなくし、それでもやっぱり「女の戦い」があるので、負けてなるものかと一生懸命おしゃれして勝負にいどむ。

そんでもって、「勝負服」のグリーンの網目のドレスを選ぶのだが、ギルが通りかかったときに褒めてくれなかったという理由で、激怒したアンは黒い服に変更する。ギルに対して怒っているのに、昔、ギルからもらったピンクのエナメルのネックレスなんてしちゃって「彼は気づいてくれるのかしら・・・」と更に墓穴を掘ろうとするのだ。

結局、嫉妬と妄想にかられた宵をすごして、みじめな思いで家に帰ってきたアンだが、ギルの最近の「上の空」のわけや、ギルが本当は結婚記念日を忘れていなかったこと、彼女の新しいドレスに気がついていたこと、そしてクリスチンのことなどなんとも思ってなかったこと、そして結婚記念日のダイヤモンドのネックレスをもらって、あまりにも現金いきなりな回復力をみせる。

挙句の果てには、同じ日の昼には、あれほどウザいと思っていた子供たちまで愛らしく見え、「かわいそうな子なしのクリスチン」と、クリスチンに対して哀れみと優越感を抱いている。



読者はここで「ああ、アンはやっぱり幸せなんだ、よかったよ」と納得して物語は終わる・・・

ところなのだが、現代の読者(葉月)は

「おいおい・・・それはないやろ・・・」

とツッコミをいれずにはいられない。




表面的には、話はこうだ。15年の主婦生活に疲れ果てたアンが、かつての美しいライバルに再会し、打ちのめされるが、アンの元気の活力である、「ギルの愛」にまた触れて元気を取り戻す、と。

深読みだが、私は、アンは「ミッド・ライフ・クライシス」、いや「隣の芝生は青い」症候群を経験したと思う。

人は誰でも、自分の選ばなかった道を目の前に突きつけられたとき、「あれもよかったのかな」と一瞬は思うものだ。まだ若いうちはそんなことも気にならない。自分の人生自体、未知数が高いのだから。現代なら話は違うが、アンの時代で40歳といえば、これまでの人生が、これからの人生で、よほどのことがない限り劇的な変化はなかっただろう。

田舎にひっこんで主婦をやっていた自分に比べて、裕福な未亡人のクリスチンは、シティライフを思い切り楽しんで、はっきりいってカッコいい。クリスチンの容貌やしぐさも、いわゆる「未亡人」でなはい。仕事を持ち、街に住み、様々な人々や文化に触れている。まだ若いクリスチンは人生を楽しもうとしているのだ。それはそれで、とても前向きな生き方ではないか。

しかもクリスチンには自信がある。それは他の女性にとって、結構魅力的なものだと思う。まあ彼女の場合、恋愛精神的には少女時代を卒業していないナルシストなので、ギルの愛想が社交辞令だということに気がついていない(というより、知っていてもそれを悟りたくないのだ)。当然のようにそれを受け止め、「ま、あんな奥さんより私の方がいいわよね」という態度丸出しだ。ギルは男特有の客観さでそれを見抜いていて、幻滅している。

だがアンは、女性特有の生真面目さで、うっかりとクリスチンの喧嘩を買ってしまっているのだ。クリスチンのいやらしい態度に翻弄され、自分自身や夫婦のあり方について真面目に考えてしまっている。


私はあの時アンは一人の女性として、クリスチンに「負けた!」と思ったと思う。




一方、クリスチンはどうだろう。「私は母性的なタイプではない」と言い、子供はいない。未亡人で、自由な独身生活を送っている。犬の鑑定家という職業は、生活のためなのか、趣味でやっているのか分からないが、おそらく趣味の延長でやっていると考えていいだろう。夫が残してくれた遺産で悠々生活をしているようだ。

クリスチンは、お洒落をして男たちの注目を集めるのが好きだ。先述の通り、彼女はナルシストなので、自分が一番でないと気がすまない。都市生活の中で、それなりに酸いも甘いも経験してきたはずなのだが、クリスチンはおそらく「小さな池の大きな魚」として半生を送ってきたような感じがする。ギルとアンに対しての彼女の態度があまりにも子供っぽいからだ。(実はここの辺りから、私はクリスチンが「お山の大将」な裕福な未亡人ではないかと考える。)


私は、クリスチンはギルとアン夫妻に対して嫉妬を覚えたのではないかと思う。


都市での生活は楽しい。仕事(っつーか趣味)も満足している。でも、何かが足りない。何か他のことで自分を満足させることができるものがあったのではないか? 40歳になり、肥り、年をとって、昔の容姿を保とうと厚化粧をしている自分に対し、アンは彼女もびっくりするほど昔と変わっていなかった。レドモンド時代、キャンパスで人気があり、一時はハンサムでお金持ちのロイ・ガードナーに崇拝され、結局幼馴染のギル(しかも十数年後にこんなイイ男になるとは!)と結婚して、幸せな主婦になっている。彼女がどれだけ幸せかは、容貌を見ればわかる。アンは幸せそうに見える。

現代の感覚で言えば、クラス一可愛くて人気のあった女の子が、その後の人生も順調で、しかも容姿も昔のまま、そして、一度は自分の彼氏だったかっこいい男の子と結婚して幸せそう、という状態だ。これでちょっとは腹が立たない女なんていない。

クリスチンはここで、残酷なゲームで遊ぶことにする。晩餐の席のときだけでも、ギルをアンから略奪するのだ。自分の魅力を思いっきり見せ、思わせぶりな言葉をたくさん使って・・・




そんな勝負に出ても、肝心のギルは上の空だ。最後の方になってそれに気づいたクリスチンは都合よく、「アンが気を使わないからこんなに疲れさせて」とアンに「妻失格」の烙印を押す。

私がもし奥さんだったら、こんな風にはさせないわ!とでも言いたげに・・・

その上に「もっと気をつけてあげなくてはだめよ、アン。あなたのこの旦那さんにわたしがすっかり夢中になっていたときがあったでしょう。ギルバートは私の崇拝者の中でいちばん立派だったとほんとうに思っているのよ。でもわたしをゆるしてくださらなくちゃいけないわ。あんたから、ギルバートを取りはしなかったのですもの」と、めちゃくちゃ失礼な事をしゃあしゃあと言うのだ。

それは、クリスチンも、彼女なりの威厳を一生懸命保とうとしているようにみえる。クリスチンも、女の戦場で、敗北感を味わっているのだ。ただアンと違ってクリスチンは幼稚で意地悪なので、意地悪さが表に出てしまう。クリスチン登場の最後の場面で、彼女は「何か面白いものでも見るように」アン夫婦を見送っている。あれは「私をネタに喧嘩でもするといいなあ」と思っているのではないだろうか?まさに

「イタチの最後っ屁」

状態だ。




それにしても、この章はアン・シリーズでは稀にみるテンションの高さがないだろうか?


しかもツッコミどころはここでは終わっていない。





帰宅したアンたち。ギルは帰るなり書斎にひきこもり、アンは倦怠期の絶望の中に落とされ、でもけなげにも「子供たちのために」がんばろうと決心している。このあたりがアンの大げさな妄想癖が出ていてちょっと笑える。

だがそれはアンの勘違いと発覚する。ギルが最近上の空だったのは患者の件での心配事があったせいだったのだ。しかもギルはアンに結婚記念日のプレゼントを用意してあり、ここぞとばかりに愛情表現を示す。最近愛してると言ってくれてなかったというアンに対し「そんな言葉なんて必要ないと思った(ミス・コーネリアが聞いたら「男ってそんなもん」と言われるだろう)」と言い訳し、補うかのように妻を褒めたおして、ヨーロッパ旅行の話を持ち出す。(本当、男ってやつは!!)

アンとギルは二人して、クリスチンが肥った、噂ではロイ・ガードナーが肥ったらしいといいながら「あなたが一番。肥ってなくてよかったぁ!私たち夫婦ってイケてるよね〜!」と、

バカップル丸出し。

その上アンは幸せすぎて眠気がさめてしまい、子供たちの部屋を徘徊しては、家族ってすばらしい!私、間違ってなかったのね!クリスチンめ、ざまあみろ!!みたいに思って、物語は終わるのだ。




まあ、アンは自分の中で、人生に対してのケリがついたのでよかったよね、の一言だ。

これが少女時代のアンなら「あんな生き方もあったのかも知れないわ。そんな自分を想像してみるけれど、やっぱり私は今の自分がいいの」的な考えをしていたと思う。

でもこのアンは結構おおっぴらに「私の人生の方が勝ち!これが私の幸せよ!」と強気だ。これが人間の成長というものなのか、アンの性格の変化なのか、これも一読者として考えてみたいものだ。




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